昭和五十六年五月十四日 朝の御理解
信心の心得 一、神は声もなし、形も見えず疑わば限りなし、恐るべし疑いを去れよ。
初めから信ずるという事はなかなか出来ませんけれども、それをだんだんとはっきりと信ずる事が出来るようになる、いわゆる信心になる。神様を信ずる心、その為には私共がどうしても真心の求道とでも申しましょうかね。心から道を求めるという姿勢を作らせてもらわにゃならん。
神様を信じて疑うわけにゃいかんという所までお互いの心が進んでその信ずる心で神を念ずる、云わば御祈念をする、願う、お礼を言う、お詫びをする、そこの信ずる所からいよいよいわゆる確固たる信心の確立というものは、生まれてくるわけですけれども、ここでは恐るべしとあるですね。疑いを去れよと。
成る程神様にゃ声もない、姿も見えぬのだけれども、その姿の見えない、声も聞こえない神様を合楽では特に神様がもの言うてござるそこに神様の姿があるようなと思うような働きがいつもここではおこっておる。それを見ておっても聞いておっても信じきらない。いうなら軽うみておるといったような事では、いつまで経っても本当のおかげにはならん。今日はどういう事かは分かりませんけれども、釈迦に説法というような事を頂いたんですけれども、少しばかり学問を致しましたりいろんな知識が云うならば常識があったりすると神様の云わば、声ももの言うて聞かせて下さっているかのような働きを受けてもそれを感じる事が出来ないですね。
ただおかげだけを信ずるというのではなくて結局神様を信ずるという生き方にならなきゃならん。でないといつまでたっても本当の神様の把握という事にはならない。
釈迦には云わば説法という事はもう知り尽くした。云うなら人に対してまあお説教をするというような意味でしょうけれども、キリスト様には説教しなければならないような感じがする。どういうわけかというと、助かりようのない、云うならば説をいかにも助かるかのように説いておられるからである。キリスト教者自体がここに自覚しなければならない。もう云うなら、地位とかその偉くなりますと誰も言いてがない、注意する者が無くなってくる。そこでいつも私は、天地が姿も見えない声も無いといわれるけれども、さまざまな形でそれを話かけようそれを正させようとする働きがあるのです。それを例えば気がつかない。そこに云うなら神様を昌読する事になる。
天地を無視する働きを無視する事になる。天地の働きそのものを、云わば有り難くしかも誰でも頂けるようになる所にです、私は合楽の信心はあるように思うです。
本気で合楽に傾倒して少し信心させて頂くようになると、昨日の十三日会の鹿児島の佐田さんのお話しじゃなかったけれども、ここに来てすぐ感じた事。塗板を見たら佐田という人が恭造さんの発表があり、佐田秀紀先生の発表があり、そして一般から鹿児島の佐田さんというて指名されて佐田さんばっかりが続いておった。何かがある。そうと又昨日は秋永という嘉朗さんが発表され、文男先生がお話しをし、委員長が秋永友良先生がお話しをする。何か今日の十三日会は佐田家と秋永家の何か二分したようなものを感ずる。その中からでもね、私はある事を感じたんですけれども、やはり今日頂く釈迦に説法、キリストには説教しなけりゃいけない、まあだ分からなきゃいけない事がある。その為、沢山の人が難儀をしておる。まあこりゃお釈迦さんにだって同じでしょうけれども、まあこれは一つの例えとして、お釈迦様といやあまあ人格であり最高のまあ有り難いお方だと言うのですから、そういう方に説法するような愚を、愚という事でしょうけれども私はしきりに昨日の佐田と秋永が合楽の昨日の十三日会に二分したようなものを感じてから何かそんな感じがするのです。
そこで私がね、どちらがどうのと言うのじゃないですけれども、いつもその天地が私共にまあ姿を見せないで、と言われるけれどもそれを神様の姿だと思わずにはおられない。そういう働きを感ずる。
これも佐田さんの鹿児島の佐田さんの発表でしたけれども、先だってから家族ずれで子供達が潮干狩りに行きたいちいうので思い立った。その日は大変天候が悪かった。雨風であった。テレビでもそれを言うておった。途中いよいよひどうなったけれども、こりゃあどうしようか、引っ返そうかとまで思ったけれども、丁度前を走っておる車のナンバーが1513という車であった。それで行こう一三と頂いた。一三と言えば神様の願いが成就する日といわれる程しに合楽では大事にされる日だから、まあ行く所まで行ってみようと行ったら自分たちの潮干狩りをしているその辺だけが、あのうお天気でまあ沢山の貝も取って来たし、帰りには堤防が決壊したり橋が危なかったりというようなその天候になったけれども、まあおかげを頂いたという話をなさっておりましたが、こういう例えばこんな例を申しますとちょっと私失礼しました。
昨日一昨日でしたけれども、或る方から電話がかかってきて、私が或るまあ一言で「はあおかげ頂きましたあ」といったような感じの御理解を頂いて伝えておった。すぐその後に佐賀の空閑さんから電話がかかって来た。今朝からお知らせを頂いたんですけれどと、私が今その人に伝えた事をその伝えた事を頂いているんです。いや本当に神様は繋がってござるという事は有り難いなあと私が空閑さんに話しておるのを、後から吉井の波多野さんがお参りしておって、もう本当に神様の間違いないお働きに恐れ入るというてそこで聞いておられた波多野さんがおかげ頂いた。その話を聞いている親子の人がここに居りましたが、そげなこつがあるじゃろうかちいったような顔をしとる。かてっぽう(片一方)は神の声を聞いた。かてっぽうはそういう働きを目のあたりに見たり聞いたりしておってもそれを感じきれない。私は合楽ではそういう意味でね、本当にあのうまあ天地がバックであるとか、又は天地が私共の為に働いて下さるとか、本当にものを言わんばかりに、まあ今の1513じゃないけれども感じさせて頂けるような働きを合楽では感じる事が出来る。 だから云うなら、神様をだんだん信ずる事も、いわゆる疑おうにも疑いようがない「はあ」と云うような今の空閑さんと、その私が電話でお話しをさせて頂いたというその、それは大分と佐賀の隔てた所で同じ御理解を頂いておる事等をね思う時に、成る程合楽では神様をま近かに疑おうにも疑えない働きが起こっておる。
だから今合楽でその神の実感というか、信じて疑わない云うならば信心の確立を急ぎ、又は願わねばならんという事でございます。
今日私が頂きます釈迦に説法という事は何か他に意味が大変あるようですけれども、何かこうもやもやとしたものがあってよく分かりませんけども、兎に角合楽では、成る程神には声もなからにゃ姿もないといわれるけれども、神様がものを言うて下さるかのように、姿をそこに見せて下さるかのような働きが初心の人にでも感じられるような働きが起こっておる。その中で私共は信心の稽古をておるという事は、もういよいよ有り難い事だなあというふうに思わにゃならんと思うですね。 どうぞ。